今回取り上げるのは、ロシアの大作曲家チャイコフスキーが人生最後に手がけたオペラ『イオランタ』です。
『イオランタ』の初演は、1892年12月18日にロシア、サンクトペテルブルクのマリインスキー劇場で行われました。
マリインスキー劇場って知っていますか?
世界中のバレエダンサーにとっていつか踊ってみたい大舞台と言われる、知る人ぞ知る名劇場です。
この劇場は、世界史でも出てくる女帝エカテリーナ二世の勅令により、今から約240年ほど前にオペラとバレエの専用劇場として建設されました。
そしてこのオペラ『イオランタ』は、チャイコフスキーのバレエ音楽として大変有名な『くるみ割り人形』と同時に(一緒に)上演されました。
そうなんです。このオペラは1幕ものと短いんです。
当時のロシアの劇場では、経済的な理由から1幕のオペラと2幕のバレエを組み合わせた抱き合わせ公演が一般的でした 。また、このようにオペラとバレエを組み合わせることで、観客層の拡大、異なる芸術形式の融合による相乗効果を狙っていたとも言われています。
現代でもオペラ『イオランタ』とバレエ『くるみ割り人形』をセットにして公演されるのはこうした理由からなんです。
それでは早速、オペラ『イオランタ』の内容について理解を深めましょう。
このオペラ作品の原作は、デンマークのロマン派劇作家ヘンリック・ヘルツ作『ルネ王の娘』です。
オペラの台本制作は、チャイコフスキーの弟(モデスト・チャイコフスキー)が担当しました。
つまり、オペラ化はチャイコフスキー兄弟が手がけたことになります。
オペラのストーリーを簡潔にまとめると次のようになります。
「生まれつき目が見えない王女イオランタは、父である王の庇護のもと目が見えないことを知らずに人里離れた屋敷で暮らしています(知らせなかったのは、娘の不幸を憂う父なりの親心でした)。父である王は、視力を回復できるという高名な医師を連れてきますが、医師は本人が目の見えないことを自覚し、見たいという意志を持たない限り治せない、と告げます。そんな時、王女の屋敷に許嫁(いいなずけ)とその友人が迷って侵入してきます。許嫁(いいなずけ)の友人は、王女が盲目であることに気づきますが、王女への変わらぬ愛を伝えます。それを知った王女は、愛の力と自己の意志によって医師の手術を受け、視力を回復するというお話です。」
主要な登場人物は5名で、盲目の王女は「イオランタ」、イオランタの父である王は「ルネ王」、高名なムーア人の医師は「エブン=ハキア」、そして許嫁(いいなずけ)の「ロベルト」とその男友達でありイオランタを想う「ヴォーデモン」です。
加えて屋敷で王女をサポートする侍女や家臣たちがいますが、覚えられなくなってしまうのでここでは触れません。
以下あらすじです。
・舞台は15世紀の南フランスです。
・物語は、王女イオランタの隔離された生活から始まります。彼女は自分が盲目であることを知らず、美しい庭園をもつ屋敷で平穏に暮らしていますが、時折、漠然とした不安に襲われます 。(目は涙を流すためにあると教えられていました。彼女に目が見えない事実を知らせなかったのは、娘の不幸を憂う父ルネ王なりの親心でした。またルネ王には、その環境を整えるだけの富と権力がありました。)[1a]
・ルネ王は娘の治療のため、ムーア人の名医エブン=ハキアを招きますが、医師はイオランタ自身が盲目であることを自覚し、光を望む強い意志を持たなければ治療は成功しないと告げます 。 [1b]
・ある日、ブルゴーニュ公爵ロベルトとその友人ヴォーデモン伯爵が、偶然この屋敷に迷い込みます 。ロベルトはイオランタの許嫁(いいなずけ)でしたが、彼には既に別の恋人がいるため、イオランタとの婚約を解消したいと思っています。一方、友人ヴォーデモンは、純粋で美しいイオランタに心を奪われます。彼はイオランタが盲目であることに気づき、光に満ちた世界の素晴らしさを彼女に語り聞かせます 。イオランタも、ヴォーデモンに強く惹かれていきます。 イオランタは、ヴォーデモンが自分の盲目を知っていることに気づき、真実が露見します 。事態を察した父ルネ王は、侵入者(ヴォーデモン)を処刑するという掟があるが、もしイオランタの目が治れば罪を許すと宣言します 。[1c]
・ヴォーデモンを救うため、イオランタは治療に耐えることを決心します。その後、ロベルトがイオランタの許嫁であることが明らかになりますが、ロベルトは婚約解消を申し出ます。ルネ王はこれを快く承諾し、ヴォーデモンの求婚を受け入れ、イオランタとヴォーデモンの結婚を許可します。 [1d]
・物語の終盤、エブン=ハキアの施術が無事に終わり、イオランタは視力を回復します。彼女は初めて見る青空に感動し、その喜びは城にいる全ての人々に伝播します。最後は、一同が喜びに包まれ、光への賛歌を全員で高らかに歌い、オペラは幕を閉じます 。[1e]
この作品を、「若い男女が障害を乗り越え、最後に愛が勝ちました!」というハッピーエンドのラブロマンスと捉えるかもしれません。
しかし、もう少し踏み込んで考えてみると、目の見えなかった王女が「光」を得る物語を通して、真実を知ることの大切さと、それを受け入れる勇気を問いかける作品であるといえるかもしれません 。
真実を隠すことが必ずしも解決策にならないというメッセージは、インターネットやSNSで情報過多の現代社会においても、何が真実であるかをしっかりと見極め、それと向き合うことの大切さを再認識させてくれます。
『イオランタ』が描く「光」は、単なる物理的な視覚だけでなく、知識、真実、そして自己理解という広範な認識の象徴であると言う解説もあります。また、「光」が当たれば、その裏に「影」もできます。「光」に照らされている所だけを見て、全てが見えたと思うのは不十分で、その裏の「影」に何があるかまで捉えないと本質は分からないこともあります。SNSに掲載されるキラキラした写真や動画が本当の姿とはかけ離れていた、という話は現代でもよくある話です。一方で、人間の目には見えない「光」、いわゆる不可視光線(紫外線や赤外線)なんていうのもあります。世の中すべてのものが見えているような気がしても、見えていないものがあるということを知っておくことも大事かもしれません。
そう考えていくと、「光」とか「見えるとは?」というテーマってとても深い意味を持っていると思いませんか?
ちょっと話が哲学的になってしまいましたので戻して、代表的なアリアや重唱の聴きどころについて触れていきます。本作品は、チャイコフスキーの最後のオペラとして、彼の円熟した技法と抒情的な美しさが最高度に発揮されています。
以下曲名でネット検索すると、有名なオペラ歌手が歌うそれの音源や映像を視聴できますので、オペラ鑑賞の前にこれだけ聴いておくだけでも感情移入しやくすなるかもしれません。
[1a] 「“Otčego ėto prežde ne znala” (どうして私は前からこのことを知らなかったの)」:それまで自分が盲目であることを知らずに無邪気に暮らしていたイオランタが、世界が自分の知っている姿とは違うことに気づき始め、それが何なのか分からず、胸をざわつかせて歌うアリアです 。
[1a] 「Chorus: “Spi, pust’ angelï krïlami navevayut snï”(眠りなさい、天使が翼であなたに夢を運んで来ますように)」:イオランタが横になって休みたいと言った時に、侍女たちが歌い始める子守歌です。チャイコフスキーならでは美しい旋律で紡がれる、侍女たちの愛が溢れる甘美な女声合唱です。
[1b] 「Arioso Of The King: “Gospod’ moy, esli grešen ya”(主よ、もし私が罪を犯したならば)」:父ルネ王は、娘イオランタの盲目を隠し続けることへの深い苦悩と、娘への深い愛情を歌います 。娘への心配と悩みを重厚かつ感情豊かに表現するとともに、王の人間的な弱さ、そして親としての葛藤を浮き彫りにし、物語に深みを与えます。彼が娘の幸福を願うあまり、真実を隠すという選択をしたことの悲劇性が、音楽によって強く強調されます。
[1b] 「Monologue Of Ibn-Hakia: “Dva mira – plotskiy i dukhovnïy”(二つの世界:肉体の世界と精神の世界)」:ムーア人の高名な医師エブン=ハキアが、イオランタの診断後、彼女は視力を取り戻すことができるかと問われ、まず彼女に目が見えない、その事実を伝えるべきと主張します。そして神が造ったもの(人間を含む自然界のことを言っています)には、肉体の世界と精神の世界という二つの世界があり、神の意志により分かちがたく結ばれていること、そしてそれゆえいくつかの真理の答えは精神の世界にこそ存在し、視覚という肉体的な問題も、光というものを肉体の目に映すためには視るという概念を本人が理解しなければいけないのです、と熱く訴えかけます。(現代の医学とは異なるかもしれませんが大目に見てあげてください)医師としてのプライド、賢者が持つ智慧や慈愛、神への信仰心が相まった状態を、まさに壮大な歌曲(モノローグですが)として表現するお手本のようです。
[1c] 「Romance Of Vaudémont: “Net! Čarï lask krasï myatežnoy”(ヴォーデモンのロマンス)」:
ヴォーデモンが、イオランタに光の世界の素晴らしさを語り聞かせる場面で、彼の純粋な心と、イオランタへの募る恋心を情熱的に表現します。この歌唱が、イオランタの心を動かし、彼女が光への関心を持つきっかけとなる重要な役割を果たします。
[1e] 「Blagoy, velikiy, neizmennïy(終幕の合唱:光と愛への賛歌としての音楽的クライマックス)」:
オペラの終幕では、イオランタの目が無事に治り、彼女が初めて青空を見た感動の場面で、全員が「光への賛歌」を高らかに歌い、物語は幕を閉じます 。この合唱は、物語のハッピーエンドを象徴し、光、愛、そして真実の勝利を祝う音楽的クライマックスとなります。チャイコフスキーの華麗な管弦楽法と豊かな旋律が最大限に発揮される場面であり 、「豊かなハーモニーと熱気に満ちたオーケストレーション、より情熱的な旋律」によって、イオランタの性格の深まり、そして物語全体の解放感が表現されます 。
前半で「光」の話をしましたが、チャイコフスキーが『ルネ王の娘』をオペラ化したのは、単に物語の魅力だけでなく、盲目と開眼、真実と無知、そして愛の力というテーマが、彼自身の内面的な葛藤や哲学的探求と深く共鳴したためであると言われています。
チャイコフスキーと聞くと、多くの人はロシアを代表する偉大な作曲家で、当時からその才能は高く評価され、世界中で指揮活動を行い、大劇場で自作を公演すれば会場からは拍手喝采、そんなキラキラしたイメージを思い浮かべるかもしれません。確かにそれは間違っていないかもしれませんが、人間ですので「影」の部分もありました。
彼は同性愛者だったそうですが、教え子であったミリューコヴァという女性と結婚し、なんと3週間で彼女の元から逃げ出します。その後、帰宅することはあっても1週間と同居できず、連日モスクワ川に入水自殺を試みます。離婚の交渉にも失敗し、生涯この妻とは別居することになりました。
つまりチャイコフスキーは、同性との肉体関係は結べないと同時に、女性の愛にも頼りがちという自分自身の中にある矛盾した思いに終生引き裂かれていたのかもしれません。そうしたことを踏まえ、チャイコフスキーは、イオランタが「本当に心から望んだときにのみ苦境から逃れられる」という境遇に深い共感を覚えたのではないか、と分析する人もいます。
最後に、抱き合わせで公演されたバレエ『くるみ割り人形』のストーリーを簡潔にご紹介しておきます。
【第一幕】
・クリスマスイヴの夜、クララの家でパーティーが開かれ、ドロッセルマイヤーおじさんがくるみ割り人形をクララに贈ります。
・夜中にクララが居間に行くと、体が小さくなり、ねずみの大群とくるみ割り人形率いるおもちゃの兵隊との戦争が始まります。
・クララの助けで勝利したくるみ割り人形は、王子の姿になってクララをお菓子の国に連れて行きます。【第二幕】
・クララはお菓子の国で様々な踊りを楽しみ、住民たちに感謝して別れを告げます。
・しかし、目が覚めるとそれはすべて、イブの夜のクララの夢だったのでした…
『イオランタ』と『くるみ割り人形』の抱き合わせ公演では、両者をどう組み合わせるかが演出家の腕の見せ所でもあります。オペラの曲間にバレエを挟み込むような演出をする公演もあれば、オペラを先行って、実はそのオペラは『くるみ割り人形』の冒頭のクララの家のパーティの出し物で、その後バレエが始まるという演出もあります。
皆さんそれぞれ気になるところがあれば、ぜひ掘り下げて頂ければと思います。
そして『イオランタ』が面白そうだなと思ったら、音楽や映像を調べてみたり、劇場に足を運んでみてください。
※ 本記事は、初めてオペラに触れる人たちが、オペラのストーリーを「他人事」ではなく「自分事」として捉えられるよう、考えかたのヒントを提示するものになります。このため何が正解かを追求することよりも、様々な解釈ができることを楽しみ、他の解釈も尊重して頂きたいと考えています。多様な解釈の存在は多様な演出にも繋がります。その上で、ストーリーや解釈の上に乗って押し寄せてくる素晴らしい音楽を楽しんでください。それが皆さんにとって良い経験となるようでしたら、是非周りの皆さんとも共有して頂けるとありがたいです。
【参考文献】
『オペラ大図鑑』アラン・ライディング、レスリー・ダントン・ダイナー 河出書房新社
オペラ対訳プロジェクト『イオランタ』 w.atwiki.jp/oper/pages/1155.html
『イオランタ』 Wikipedia
スタンダード・オペラ鑑賞ブック『フランス&ロシア・オペラ』 音楽之友社
Tchaikovsky Research「Iolanta」en.tchaikovsky-research.net/pages/Iolanta
『ロシア帝国|世界大百科事典』 ジャパンナレッジ japanknowledge.com
『夜鳴きうぐいす/イオランタ – オペラ』 新国立劇場 nntt.jac.go.jp
『チャイコフスキー:生涯 – 音楽サロン』 pietro.music.coocan.jp
『平岡貴子のオペラの世界-女王イオランタ』 takako-opera.com
『[オペラ] チャイコフスキー/「イオランタ」』2019/06 新国立劇場・オペラ研修所試演会
『アンデルセンとヘルツ、「即興詩人」と「イオランタ」について』 新国立劇場 オペラ
『バレエと文学 視覚化された無言の物語』 東京大学 学術情報リポジトリ repository.dl.itc.u-tokyo.ac.jp
『劇音楽の教材研究について – 19世紀のロシア社会の描写に着目して – 』 宇都宮大学 学術情報リポジトリ uuair.repo.nii.ac.jp
月刊ショパン『イオランタ[1幕]チャイコフスキー作曲』 株式会社ハンナ chopin.co.jp
「くるみ割り人形|バレエ発表会の定番項目のあらすじ紹介」ムースタジオ mwstudio.jp/story-nutcracker.html
【涙の作曲家と呼ばれるチャイコフスキー】”くるみ割り人形”が世界中のクリスマスを変えた日とは las-piano.com