今回取り上げるのはモーツァルトの「ドン・ジョヴァンニ」です!
「ドン・ジョヴァンニ」は聞き慣れなくても、スペイン語でいう「ドン・ファン」のことです、と言えばピンと来る方はいるかもしれません。
ドン・ファンは、スペインの伝説上の人物で、数多くの女性を誘惑しては捨てる好色放蕩(ほうとう)な「女たらし」です。言い換えれば、身分が高く、お金持ちで、イケメンで女性の扱いがうまく、取っかえ引っかえ女性を手玉に取っては捨てていった、現代ではコンプライアンス上問題大アリなプレイボーイです。どれくらいプレイボーイだったかと言うと、イタリアで640人、ドイツで231人、フランスで100人、トルコで91人、スペインで1003人とざっと2065人の女性をモノにしたそうです(オペラ内で人数が歌われています)。
ロジカルシンキングで考えると、舞台となった17世紀中世の成人年齢が18歳、平均寿命から逆算して、モテ期が仮に40歳までがずっと続いたとすると22年間で2065人。すると、1年間で約93人、下世話な話ですが、盆と正月、体調不良期間を含め22年間、おしなべて毎月約8人の女性を落としていたことになります。その場合、おそらくその数倍の女性に声を掛けていたでしょうから、もはや一般人がドン引きしてしまうほどの女性好きだったのでしょう。
考えようによっては、女性にだらしない点を除けば、口説かれる女性から見て、男性としてとても魅力があったのかもしれません。もちろん声を掛けても相手にされないことはあったでしょうし、たくさんの修羅場を経験していた(オペラ中にもあります)でしょうが、これだけの経験があれば「絶対に失敗しないし、どんな修羅場でも乗り切れる。逆にそんな修羅場だって楽しんじゃっている、俺。」といった過度の自信を持っていた可能性があります。
オペラ「ドン・ジョヴァンニ」は、そんな稀代のプレイボーイ、ドン・ファン(イタリア語でドン・ジョヴァンニ)の華麗なる恋の遍歴とその衝撃的な最期を描いた作品です。原作は、古くからヨーロッパに伝わっていたドン・ファン伝説を題材に、スペインの劇作家ティルソ・デ・モリーナによって作られた『セビリャの色事師と石の招客(El burlador de Sevilla y convidado de piedra、1630年)』です。プラハ(現在のチェコ共和国の都市)から新作オペラ公演を委嘱されたモーツァルトは、「コジ・ファン・トゥッテ」の回でもお馴染みのあの台本作家ダ・ポンテと組んでこのオペラの制作にあたりました。
あらすじに入る前に、大まかな内容と登場人物を押さえておきましょう。
このオペラは、主人公のドン・ジョヴァンニが最後に地獄に落ちるという、劇的で疾走感に満ちた破滅・転落のストーリーです。オペラの最初に流れる序曲は、ドン・ジョヴァンニが最後地獄へと落ちるクライマックスの場面に流れる旋律から始まります。序曲から既に破滅に向けたカウントダウンは始まっていることを暗示させ、少しずつ綻び(ほころび)が現れる展開となっています。最初から最後まで流石モーツァルトと言わざるを得ない珠玉のアリア、重唱曲が散りばめられています。
登場人物が多いため、少しグループにまとめると分かりやすいかもしれません。
・主人公のドン・ジョヴァンニには、「レポレッロ 」というちょいワルの部下が付き従っています。
・ドン・ジョヴァンニが第一幕のはじめに手を出す女性が「ドンナ・アンナ」です。
そのパパが「騎士長」で、娘に手を出すドン・ジョヴァンニと決闘となり彼に殺されてしまいますが、最終幕で「石の騎士像(幽霊?亡霊?)」となって現れ、彼を地獄に落とします。
アンナの彼氏が「ドン・オッターヴィオ」でちょっと頼りない感じの男子です。
・結婚式を挙げていたのが村娘の「ツェルリーナ」と農夫の「マゼット」です。ドン・ジョヴァンニはツェルリーナまでも口説こうとします。
・また、ドン・ジョヴァンニに遊ばれてしまった過去の女性が「ドンナ・エルヴィーラ」です。なんだかんだいってまだ未練があり、要所要所でドン・ジョヴァンニの新しい恋を阻んできます。
ではあらすじを見ていきましょう。(後ろの括弧[1]は第1幕を意味します)
・舞台は17世紀、スペインのある町という設定です。
・主人のドン・ジョヴァンニがまたもや女性(アンナ)を誘惑しているあいだ、レポレッロは外で待っています。顔を隠して走り去るジョヴァンニを、誘惑されたアンナが追いかけます。ジョヴァンニの前に彼女の父親である騎士長が現れ、決闘が始まります。騎士長はジョヴァンニに刺殺されます。アンナは父親の死体を目にして、婚約者のオッターヴィオに、父の仇を討つよう要求します。[1a]
・場面は変わり、ジョヴァンニは通りすがりの女性に声をかけますが、それは昔の女エルヴィーラでした。彼女はジョヴァンニに捨てられてもまだ彼を愛し、彼を探していたのでした。ジョヴァンニは大慌てで逃げ出し、後を託されたレポレッロは彼女に、ジョヴァンニはヨーロッパ中の2000人もの女性と関係しているのだから諦めるよう諭します。[1b]
・村で農夫マゼットと村娘ツェルリーナの結婚式が始まろうというとき、ジョヴァンニが現れて花嫁を誘惑しますが、すんでのところでエルヴィーラが止めます。アンナは、父親の犯人探しの協力をジョヴァンニに求めますが、話すうちに彼こそが犯人だと気づきます。[1c]
・ジョヴァンニは、村人たちを招いてパーティを開きます。エルヴィーラ、アンナ、オッターヴィオが仮面をつけて屋敷に到着します。宴会が始まり、どさくさに紛れてジョヴァンニがツェルリーナを連れ出しますが、ツェルリーナが助けを求めて叫びます。ジョヴァンニは、オッターヴィオが銃を取り出すのに気づきます。3人が仮面を取り、ドン・ジョヴァンニを脅しますが、彼は挑戦的な態度を改めず、「恐ろしい嵐がおれを脅かしているが、こんなことでは驚かない。たとえこの世が崩れようとも、恐れるものは何もない」と叫びます。[1d]・ドン・ジョヴァンニはレポレッロと服を交換して変装し、エルヴィーラの侍女を誘惑します。[2a]
・マゼットと農民たちはドン・ジョヴァンニを殺そうとやってきますが、ドン・ジョヴァンニ扮するレポレッロに計画を話してしまい、逆に痛めつけられてしまいます。[2b]
・彼の服を着たレポレッロは命からがら逃げてきて、ドン・ジョヴァンニと落ち合います。すると、騎士長の墓の石像が、戒めの言葉を喋り出します。驚く2人でしたが、ドン・ジョヴァンニは臆せず石像を晩餐に招待します。[2c]
・夜、彼の家に本当に石像がやってきます。石像はドン・ジョヴァンニに悔い改めるよう迫りますが、彼は拒否します。石像はドン・ジョヴァンニの手を取って炎の中へ引きずり込み、最後の叫び声とともに地獄の業火に焼き尽くされます。[2d]
・ドン・ジョヴァンニの地獄落ちが終わると、他の人々が現れ、ついに罪の報いを受けたことに満足しながらそれぞれが新たな人生を始めると決意し終幕となります。[2e]
本作のあらすじ、背景を知った上で、代表的なアリアや重唱を聞いてみると、曲の印象も変わるかもしれません。
以下イタリア語の曲名でネット検索すると、有名なオペラ歌手が歌うそれの音源や映像を視聴できますので、オペラ鑑賞の前にこれだけ聴いておくだけでも感情移入しやくすなるかもしれません。
[1b] 「Madamina, il catalogo e questo(カタログの歌)」:レポレッロは主人ジョヴァンニの武勇伝を、誇張と皮肉を込めてエルヴィーラに歌います。
[1c] 「La ci darem la mano(手を取り合って)」:結婚式の中に入っていって花嫁を口説こうとするジョヴァンニの見境いのなさに驚かされる中、彼はあまりにも見事な誘惑の二重唱を歌い始めツェリーナはそれにつられてしまいます。
[1c] 「Don Ottavio, son morta!(オッターヴィオ、私死にそう!)」:ついに父親殺しの犯人(ジョヴァンニ)を見つけたアンナが劇的に決然と歌うアリアです。
[1d] 「Fin ch’ han dal vino(シャンパンの歌)」:「シャンパンの歌」として知られているこの曲は、常軌を逸した興奮と一種破壊的なパワーを持った、まさにパリピ、ジョヴァンニのアリアです。
[2b] 「Vedrai carino, se sei buonino(薬屋の歌)」:ジョヴァンニに騙され、殴られてしまったマゼットに対し、ツェルリーナが痛みを忘れてしまうくらいこの上なく甘美で優しいアリアを歌って慰めます。
[2d] 「Don Giovanni, a cenar teco(ドン・ジョヴァンニ、晩餐に招かれたので参った)」:序曲の初めで聴いた和音から騎士長の石像が入ってきて本作品のクライマックス「地獄落ち」のシーンが始まります。改悛を迫る石像と、全く悔い改めようとしないジョヴァンニ、焦るレポレッロの対比の中、単純無比で有無を言わせぬ地響きのような音の唸りが押し寄せ、ジョヴァンニの地獄落ちを演出します。
この作品は、次々に女性を口説いていく無類の女たらしが、最後には地獄に落ちるストーリーであることから、いわゆるよくある勧善懲悪劇と言うことができます。しかし、その音楽には、そのような生ぬるい笑いでは済まされぬ、凄まじくデモーニッシュな力(超自然的な、悪魔的な力)を内包していると言う人もいます。
台本作家ダ・ポンテ(ロレンツォ・ダ・ポンテ)は、裕福な家庭に育ち、若くしてヴェネツィアの聖職に就いたものの、放蕩生活による不謹慎かつ自由奔放な行為のために、ヴェネツィアの異端審問によって15年間の追放を宣告されました。ある意味地獄落ちです。その後、ウィーンに移住してその文才が認められ、オーストリア皇帝ヨーゼフ二世からモーツァルトのオペラ制作に関わるよう言われます。彼自身ドン・ファンを彷彿とさせる遊び人で、彼の視点から「ドン・ジョヴァンニ」が制作される過程の映画が作られているほどです(『イオ、ドン・ジョヴァンニ』(カルロス・サウラ監督 2009年))。
また、作曲を行ったモーツァルトは、その類いまれなる才能をいかんなく発揮し、地獄落ちのテーマとも重なる序曲(後世、ロマン派の音楽家に大きな刺激を与えたと言われています)をオペラ初演直前に一夜漬けで書いたというエピソードもあります。インドから伝来した、水、酒、果物、レモン汁、スパイスをミックスした「パンチ」を飲みながら、眠くならないよう奥さんに『千夜一夜物語』の「アラジンと魔法のランプ」を読んでもらい、キャッキャ、キャッキャ言いながら序曲を書き上げてしまったと言われています。一方、その時すでに首が回らないほどの借金を抱えていたことも知られています。音楽制作のプレッシャー、借金苦といった極限状態の中で、地獄落ち手前のスリル、恐怖を感じていたかもしれません。
あくまでも一つの考え方ですが、ダ・ポンテもモーツァルトもドン・ジョヴァンニの地獄落ちに既視感を覚えていた同志だったかもしれません。専門的な解釈はオペラの専門家に任せて、色々と空想の羽根を広げながら、この素晴らしい音楽作品を味わっていただければと思います。
もし「ドン・ジョヴァンニ」が面白そうだなと思ったら、そんなことにも思いを巡らせながら、音楽や映像を調べてみたり、劇場に足を運んでみてください。
※ 本記事は、初めてオペラに触れる人たちが、オペラのストーリーを「他人事」ではなく「自分事」として捉えられるよう、考えかたのヒントを提示するものになります。このため何が正解かを追求することよりも、様々な解釈ができることを楽しみ、他の解釈も尊重して頂きたいと考えています。多様な解釈の存在は多様な演出にも繋がります。その上で、ストーリーや解釈の上に乗って押し寄せてくる素晴らしい音楽を楽しんでください。それが皆さんにとって良い経験となるようでしたら、是非周りの皆さんとも共有して頂けるとありがたいです。
【参考文献】
『オペラ大図鑑』アラン・ライディング、レスリー・ダントン・ダイナー 河出書房新社
スタンダード・オペラ鑑賞ブック『ドイツ・オペラ(上)』 音楽之友社
オペラ対訳ライブラリー『ドン・ジョヴァンニ』音楽之友社
『オペラ鑑賞辞典』中河原理 東京堂出版
『セビーリャの色事師と石の招客 : 他一篇』ティルソ・デ・モリーナ(佐竹謙一訳)岩波文庫
『WAモーツァルト「ドン・ジョヴァンニ」公演 パンフレット』新国立劇場 2022年12月
『オペラ「ドン・ジョバンニ」を初心者でもわかりやすく解説します』 石川了 英国ロイヤルオペラ&バレエ
https://tohotowa.co.jp/roh/news/2019/12/10/kaisetsu_dongiovanni/
『イオ、ドン・ジョヴァンニ』(カルロス・サウラ監督 2009年)イタリア版ウィキペディア解説
https://it.wikipedia.org/wiki/Io,_Don_Giovanni
『年少者は18歳をもって選帝侯とみなされる』古川誠之 早稲田大学リポジトリ
『近世ヨーロッパの人口動態 (1500~1800年)』高木正道 静岡大学リポジトリ