「長崎」、「スズキ」、「ゴローさん」・・・皆さんはこの3つのワードを聞いてピンと来るでしょうか?
世界中のオペラファンは、この3ワードだけで「ああ、『蝶々夫人(ちょうちょうふじん、マダム・バタフライ)』のことね!」と気付くでしょう。
今回は、日本を舞台にしたプッチーニの世界的に有名なオペラ『蝶々夫人』について解説します。
イタリアのオペラ作曲家プッチーニは、実は日本を訪れた経験がありません。
しかしながら、オペラ『蝶々夫人』には「君が代」や「さくらさくら」、「お江戸日本橋」といった日本オリジナルの旋律が随所に盛り込まれています。
プッチーニはどうしてそのようなことができたのでしょうか?
そもそも彼はなぜ日本を舞台にした作品を作ろうと思ったのでしょうか?
本作品が世界的な成功を収めた裏には、日本人女性の活躍、貢献がありました。
なんだか気になりますね!
今回の解説では、『蝶々夫人』のストーリー説明に加え、本作品が世界的な傑作オペラとなるまでに尽力した日本人女性の活躍や当時の時代背景についても触れてみたいと思います。
たくさん回り道をしますので、今回の解説は少し長くなるかもしれません。
まず本オペラ作品が制作された時代のヨーロッパを見てみましょう。
プッチーニが本作品の制作を開始したのは1902年、ミラノスカラ座で初演を行ったのが1904年です。
1800年後半から1900年初頭にかけてパリやロンドンでは万国博覧会が開催されていました。日本も江戸幕府や有力な藩(例えば薩摩藩)、明治政府が出展しました。すると、浮世絵、琳派、工芸品や陶磁器など日本の芸術が高く評価され、広くもてはやされるようになります。1872年に美術評論家のフィリップ・ビュルティがその流行を「ジャポニスム」と名付け、特に葛飾北斎や喜多川歌麿、歌川広重を含む浮世絵師の作品は、ボナール、マネ、ドガ、ルノワール、モネ、ゴッホ、ゴーギャン等、名だたる芸術家たちに大きな影響を与えたと言われています。またアンリ・リヴィエールのように北斎の『富嶽三十六景』に触発され、『エッフェル塔三十六景』を描いた画家もいたくらいです。
その「ジャポニスム」ブームが最高潮に達するのが、川上貞奴(かわかみさだやっこ)の1900年のパリ万博公演だったとも言われています。川上貞奴(本名は川上貞)は、生家の没落により養女となり、「貞奴」を襲名し芸妓となりました。日舞の技芸に秀で、才色兼備の誉れが高く、時の総理伊藤博文や西園寺公望など名立たる元勲から贔屓にされていました。
その後、川上音二郎と結婚し、川上音二郎一座の看板女優として欧米を巡業します。すると絶大な人気を博し、同一座はロイ・フラーによって1900年のパリ万博に招かれ、貞奴はフラーの劇場に「マダム貞奴」として出演し大人気となります。
万博を訪れたアメリカの旅行作家バートン・ホームズは、フランスの演劇批評家らがこぞって川上一座を称賛していること、ある高名な演劇評論家は「サラ・ベルナールがフランスの女優で、エレオノーラ・ドゥーゼがイタリアの女優なら、貞奴は世界の女優だ」とまで評したと伝え、その他の催し物がつまらなく見えてしまうほどだった、と書き綴ったそうです。初日公演には、彫刻家ロダンも招待されており、ロダンは貞奴に魅了され、彼女の彫刻を彫りたいと申し出たものの、彼女はロダンの名声を知らず、時間がないという理由で断ったしまったという逸話まであるそうです。また彼女の公演を観た、音楽家ドビッシーや画家ピカソもこぞって彼女の演技を絶賛し、フランス政府はオフィシェ・ダ・アカデミー勲章を授与しました。
プッチーニも彼女の評判を耳にしており、彼女らのイタリア巡業中になんとしても公演を観たいとローマに向かったのですが入れ違いとなってしまい、500キロ以上離れたミラノまで追いかけミラノで数回公演を観たそうです。そしてその時耳にした「越後獅子」の旋律を自宅のピアノを弾きながら大切に書き残したと言われています。
時期は前後しますが、こうした「ジャポニスム」ブームを受け、プッチー二も日本文化に関心を持ち、日本の音楽や文化、作法について勉強していました。そして日本を題材としたオペラ作品を制作するためその素材(オペラ作品のベースとなる戯曲等)を探していました。
そこで巡り会ったのが、本作品の原作となるデーヴィッド・ベラスコの戯曲『蝶々夫人』でした。ベラスコはこの戯曲を作成するにあたり、アメリカ人弁護士で小説家であったジョン・ルーサー・ロング作の小説『蝶々夫人』を原作としました。つまり、『蝶々夫人』はロングによって書かれたものになります。
自身の『トスカ』公演でロンドンを訪れていたプッチーニは、ベラスコの『蝶々夫人』公演を観劇し、ぜひオペラ化したいと終演後のベラスコの楽屋へ突撃して交渉したそうです。そして、台本作家ルイージ・イツリカ、ジュゼッペ・ジャコーザとともにオペラ化に漕ぎ着けました。
本作品を理解するにあたり登場人物を押さえましょう。
主要な登場人物は4名で、男子サイド(アメリカ側)、女子サイド(日本側)各2名ずつと整理すれば簡単です。
男子サイド(アメリカ側)は、海軍士官の「ピンカートン」とアメリカ合衆国領事の「シャープレス」の2名です。ピンカートンは若くて自信過剰なイケイケ男子で、シャープレスは思慮深く落ち着きのあるオジさまです。
女子サイド(日本側)は、芸者の「蝶々さん」と女中の「スズキ」の2名になります。
その他の人たちはアリアや重唱を歌うこともなく、あらすじを見て役柄を理解してもらえば足ります。
まずは、オペラ『蝶々夫人』の簡単なあらすじです。
・舞台は19世紀末の日本の長崎で、蝶々さん(15歳)は没落した侍の家の娘で芸者でした。
・そんな彼女を「妻」に迎えたアメリカ海軍士官のピンカートンは、イケメンで優しく、蝶々さんはすっかり夢中になってしまいます。しかし、彼にとって彼女は斡旋(あっせん)された「現地妻」でした。
・アメリカに帰ったピンカートンは、蝶々さんが自分を待ち続けているとは思いもせず、アメリカ人の妻を迎えます。待ち続けた蝶々さんが再会したピンカートンは、妻帯者でした。
・だが待つ間に「母」になっていた蝶々さんは強く、子供を引き取りたいと願い出るピンカートン夫婦に対し、彼女は潔く身を引き、自ら命を絶ちます。それは子供の将来を考えてのことでした、、
ピンカートンと出会った蝶々さんは15歳でした。幼かった蝶々さんは、男性を愛し、そして子供を愛することで成長しました。しかし幼妻にもたらされた理不尽な顛末に絶望し、子供の将来のため、自身の名誉のため自死します。
プッチーニは単なるジャポニスムを超えて、東洋が西洋と出会ったことによる悲劇を、日本女性へのシンパシーと共に愛情をもって描き、そこに煌めくような素晴らしい音楽をまとわせ、珠玉のオペラ作品へと昇華させました。
小説『蝶々夫人』は、アメリカ人のロングにより執筆されたと書きましたが、実はロングも訪日経験はなく、宣教師の妻として長崎に滞在していた親日家の姉サラ・コレルに日本の風俗や習慣を事細かに説明してもらっていました。
ではサラ・コレルはどのようにして日本の風俗習慣や日本人の精神美学、思考などについて理解を深めたのでしょうか?
長崎には、長崎港を見下ろす高台にグラバー邸という観光名所があります。スコットランド出身の貿易商トーマス・グラバーのお屋敷ですが、トーマス・グラバーの妻はツルという名前の日本人女性でした。サラ・コレルは、当時長崎の名士でもあったトーマス・グラバーの妻ツルと良好な関係(いわゆる学校のママ友)にあり、彼女から日本文化や日本女性の尊厳理念等について教わっていました。
ツルの着物には彼女があしらった蝶の紋様があり、蝶々夫人のタイトルのモチーフになったのではないかとも言われています。
では、プッチーニはどうやって日本文化や日本の音楽、作法、精神性等を学んだのでしょうか?
当時「ジャポニスム」ブームにより、日本文化に関する資料はヨーロッパでも若干は入手できましたが、情報は断片的でした。日本に関する生きた、体系立った知識や音楽資料は、当時のイタリア特命全権公使であった大山綱介(おおやまつなすけ)の妻、大山久子(おおやまひさこ)から得ていました。大山久子は、幼少期に長唄と箏曲を学び、女学校時代にはアメリカから招聘されていた音楽教育家のメーソン女史から西洋音楽を学んでいました。イタリア語を完璧に操れた大山久子は、プッチーニに日本音楽を歌って聴かせることもできれば、その曲の背景や歌詞の意味を解説することもできました。また夫のイタリア公使を通じて日本から楽譜やレコードも取り寄せることができました。そして、日本で楽譜やレコードの収集に協力したのが、大山久子の女学校時代の親友であった東京音楽学校(現在の東京藝術大学)教授の幸田延(こうだのぶ)でした。プッチーニは彼女たちから提供された音楽資料を自身の邸宅に大事に大事に保管していました。
大山久子の分け隔ての無い人的交流は多くの友人知己をもたらし、当時の宮廷にも出入りしてマルゲリータ皇太后の信任も厚かったと言われています。こうした日本とイタリアの良好な関係性から、公使である大山綱介のところに2隻の軍艦(装甲巡洋艦)をアルゼンチンから購入しないか、という話が持ち込まれます。その際、資金調達に暗雲が立ち込めるですのが、その難局を打開したのが歴史の教科書にも出てくる高橋是清(たかはしこれきよ)です。日露戦争の勝敗を決した日本海海戦の勝利は、この2隻の軍艦がなければ成し得なかったと言われています。
話が脱線しましたので戻してあらすじを見ていきましょう。(後ろの括弧[1]は第1幕を意味します)
・舞台は1895年頃の日本の長崎です。
・アメリカ海軍士官のピンカートンは、滞在先の長崎で、仲介人のゴローを介して一時的な「結婚」をします。お相手の蝶々さんは良家の娘でしたが、父の切腹によって家は没落し、芸者に出されていました。[1a]
・アメリカ合衆国領事のシャープレスは、純情な蝶々さんを傷つけないよう、ピンカートンに忠告します。しかし、ピンカートンは立ち寄る港ごとに新しい恋があると豪語し、可愛くて「蝶のように」舞う日本人の花嫁を気に入っているが、いずれは「本物のアメリカ人の花嫁」と結婚するだろうと言います。[1b]
・幸せいっぱいの様子で蝶々さんが到着し、自分は15歳で、家が没落して芸者になったと語ります。蝶々さんの親戚が結婚式に参列するためにやって来ます。[1c]
・蝶々さんはピンカートンに、父親が自害するときに使った短刀を見せます。結婚式が終わったところに蝶々さんの叔父ボンゾ(仏教の僧侶)が現れ、彼女がこの結婚のためにキリスト教に改宗したことを非難し、蝶々さんは一族から絶縁されてしまいます。[1d]
・二人きりになった新婚夫婦は愛を確かめ合います。[1e]
・ピンカートンがアメリカに戻って3年、蝶々さんは、夫の帰りを頑なに信じています。[2a]
・ゴローの仲介で裕福なヤマドリ公が蝶々さんに求婚しますが、自分には夫がいると断わります。そこへシャープレスがピンカートンの手紙を届けに来ます。シャープレスはピンカートンが日本に戻って来ると告げますが、彼がアメリカ人女性と結婚したことはさすがに話せませんでした。それとなくヤマドリ公の話を受けてはどうかと促しますが、ピンカートンとの子供を見せ涙ながらに訴えます。[2b]
・港で大砲の音が聞こえ、船が入ってきます。蝶々さんは望遠鏡をのぞいて、ピンカートンの船だと声を上げ、女中のスズキに家中に花びらをまき散らすように言います。[2c]
・蝶々さんは結婚した時の衣装を身に着け、子供とスズキと一緒にピンカートンを待ちます。[2d]
・一晩中起きて待っていた蝶々さんがやっと休んだころに、ピンカートンがシャープレスと一緒にやって来ます。スズキは女性を伴っているのを見て、それがピンカートンの妻だと気づきます。スズキは意気消沈しますが、シャープレスとピンカートンは、子供を渡すように蝶々さんを説得してほしいとスズキに頼みます。[3a]
・ピンカートンは花びらを見て動揺し、蝶々さんを傷つけたと知り後悔の念に駆られ逃げ去ります。[3b]
・蝶々さんはピンカートンを探しますが、代わりに待っていたのは、彼の妻となったケイトでした。蝶々さんは子供を渡すことに同意しますが、ピンカートンが連れに来るなら、という条件をつけます。[3c]
・一人になった蝶々さんは、息子にアメリカ国旗を持たせて目隠しをし、別れを告げ、父親の形見の短刀で自害します。そこへピンカートンが蝶々さんの名を呼びながら戻ってきますが、蝶々さんはそのまま倒れて息絶えます。[3d]
本作のあらすじ、背景を知った上で、代表的なアリアや重唱を聞いてみると、曲の印象も変わるかもしれません。
前述のとおり、日本の国歌「君が代」に加え、「越後獅子」「さくらさくら」「お江戸日本橋」「高い山から谷底見れば」「宮さん宮さん」「かっぽれ~豊年節」「推量節」といった様々な日本の曲のフレーズが引用されていますので、どこにそれが隠されているか探してみるのも面白いでしょう。
以下イタリア語の曲名でネット検索すると、有名なオペラ歌手が歌うそれの音源や映像を視聴できますので、オペラ鑑賞の前にこれだけ聴いておくだけでも感情移入しやくすなるかもしれません。
[1e] 「Viene la sera/Bimba dagli occhi di pieni malia(愛の二重唱:夕闇が訪れた〜愛らしい目をした乙女よ)」:本作品で最も甘く美しいと言われるピンカートンと蝶々さんの愛の二重唱です。愛し合う二人の甘く、情熱的なやりとりの中に、「自殺のテーマ」や「呪いのテーマ」の旋律がたびたび現れ、蝶々さんに不安がよぎります。しかし空に星が瞬き始め、その旋律がヴァイオリンで官能的に奏でられると、蝶々さんの不安は少しずつ打ち消されていきます。
[2a] 「Un bel di, vedremo(ある晴れた日に)」:蝶々さんは、彼女のことを不憫に思い、涙にむせぶスズキに向かって、「ある晴れた日に、港に船が入るでしょう」と歌い出します。ピンカートンが戻ってくる情景を夢想しながら、次第に感情を高揚させていきます。蝶々さんの一途さが表現される代表的なアリアです。
[2b] 「Legger con me volete questa lettera(手紙の二重唱)」:シャープレスが、蝶々さんにピンカートンからの手紙の内容を伝える二重唱です。美しい旋律にのって手紙を読み始めるのですが、情に厚いシャープレスは手紙の内容を全て読めず、二人の気持ちはなかなか噛み合いません。
[2d] 「Coro a bocca chiusa(ハミング・コーラス)」:長崎に戻ってきたピンカートンを待つ夜長が、弦を弾いて音を出すピッツィカートと合唱により、静かにそしてこの上なく美しい調べとして描写されます。時を忘れさせるようなその美しい旋律は、シャープレスとの手紙のくだり(手紙の二重唱)の旋律を引用していることから「美しいゆえにとても残酷」と言う人もいます。
[3d] 「Tu! Tu! piccolo iddio!(かわいい坊や)」:仏壇から父の形見の短刀を取り上げた時に、子供が部屋に走り込んできます。蝶々さんは泣きながら子供を抱きしめ、ドラマティックなアリア「かわいい坊や」を歌います。涙ながらに「さあ遊んでおいで」と子供を促し、蝶々さんは屏風の陰に入り自死します。
本作品のミラノスカラ座での初演は、様々な理由から大失敗したと言われています。しかし、プッチーニはこの作品を「自分の最も心のこもった、感動的で想像力豊かな」オペラだと信じ、熱心に改定を行い、3ヶ月後の公演では大成功を収めることができました。
本作品が世界的に有名になり、世界各地で公演されていく中で、日本人の歌い手も世界の舞台に羽ばたいていきました。三浦環(みうらたまき)は、世界中の有名歌劇場を始め世界各地で『蝶々夫人』上演を二千回行ったと言われる(抄演、アリア抜粋含む)日本発の世界的なオペラ歌手(ソプラノ)の先駆けです。東京音楽学校(現在の東京藝術大学)にて、前述した幸田延教授に声楽を学び、才能が認められてイギリスロンドンで音楽活動をしながら、国際的なオペラ歌手になるための基礎を築きました。ロンドンでイタリア語の学習や演奏会のピアノ伴奏を通じて彼女を支えたのが澤田美代子(さわだみよこ)で、彼女は前述した大山久子の娘でした。大山久子の娘だけあって、パリ、ウィーン、ローマで暮らした少女時代の経験と幸田延教授に師事して磨いたピアノの腕前が強力な支えとなりました。
三浦環は、「蝶々さん」として舞台に立つことでヨーロッパのみならずアメリカでもその地位と名声を確立し、押しも押されぬオペラ界の歌姫として成功していきます。ニューヨークではメトロポリタン歌劇場にて、ピンカートン役に伝説的名テナー、エンリコ・カルーソーを相手に「蝶々さん」を好演しました。
1920年イタリアのローマ公演では、プッチーニが観劇に訪れ、公演後環の楽屋を訪れたプッチーニは感極まった様子で「最高のマダム・バタフライでした。このオペラは、あなたのために作られたものです。」と言って賞賛したそうです。
後日プッチーニは、三浦環を『蝶々夫人』を制作した自身の邸宅に招待します。そこは大山久子が日本の音楽資料を届けた屋敷でした。プッチーニは作曲に使用したピアノを前に『蝶々夫人』制作の想いを熱く語ったと言われています。そしてそのピアノには、豪奢な日本の錦裂(「にしきぎれ」と読みます。独特の渋く深い美しさのある色が使われ、茶の湯や掛け軸の表装、和文化の衣装などで広く使用されています。)がピアノカバーとして大事にかけられていたそうです。
環は御礼にプッチーニに日本へ来るよう誘いましたが、自動車事故や男女関係のトラブルに見舞われていたプッチーニはその4年後には他界してしまい願いは叶いませんでした。
「蝶々さん」は、外国人が夢に描いた幻想の日本人女性と言われますが、日本人女性が現地妻として描かれる本作品(制作者であるプッチーニ含め)を生理的に受け入れ難いと言われる方がいるのも事実です。
一方で、本解説のとおり、本作品のことを深掘りすればするほど、当時の日本人女性の才能の豊かさ、努力を惜しまぬチャレンジ精神、他人のために行った無私の奉仕の精神に胸が熱くなります。
こうした日本人女性と広く親交のあったプッチーニです。
彼こそが当時、日本人女性の素晴らしさに最もよく気づいていた人の一人だったのではないでしょうか?
皆さんはどう思われますか?
もし『蝶々夫人』が面白そうだなと思ったら、音楽や映像を調べてみたり、劇場に足を運んでみてください。
※ 本記事は、初めてオペラに触れる人たちが、オペラのストーリーを「他人事」ではなく「自分事」として捉えられるよう、考えかたのヒントを提示するものになります。このため何が正解かを追求することよりも、様々な解釈ができることを楽しみ、他の解釈も尊重して頂きたいと考えています。多様な解釈の存在は多様な演出にも繋がります。その上で、ストーリーや解釈の上に乗って押し寄せてくる素晴らしい音楽を楽しんでください。それが皆さんにとって良い経験となるようでしたら、是非周りの皆さんとも共有して頂けるとありがたいです。
【参考文献】
『オペラ大図鑑』アラン・ライディング、レスリー・ダントン・ダイナー 河出書房新社
スタンダード・オペラ鑑賞ブック『イタリア・オペラ(上)』 音楽之友社
オペラ対訳ライブラリー『蝶々夫人』音楽之友社
『Opera オペラワンダーランド』ぴあ株式会社
『名作オペラに酔う!』音楽之友社
『「蝶々夫人」と日露戦争』 萩谷由紀子 中央公論新社
『マダム貞奴 世界に舞った芸者 』レスリー・ダントン・ダイナー 集英社
『プッチーニ』南條年章 音楽之友社
『星を仰いで 大戦の前から現在まで』澤田壽夫 中央公論事業出版