今回は、イタリアが誇るオペラ作曲家、ヴェルディの初期の傑作オペラ『エルナーニ』について解説します。
この作品の原作者はヴィクトル・ユーゴーです。(「ユゴー」と記載されることもありますが、ここでは「ユーゴー」と表記します)
皆さんは、この人のこと知っていますか?
そうです、あの有名なミュージカル『レ・ミゼラブル』の原作者です。
今回のオペラ『エルナーニ』は、そのユーゴーがオペラの元となる戯曲(おはなし)を書き、ピアーヴェが台本を作成し、ヴェルディが作曲したという、まさにドリームチームにより制作されたオペラなんです!!
本作品で初期のヴェルディの人気は決定づけられたとも言われています。
ちょっと気になりますね。
ユーゴーが戯曲『エルナーニ(Hernani)』を制作した19世紀初頭のフランスは、ナポレオン戦争後の混乱と、旧体制(アンシャン・レジーム)への反動、そして自由主義や民族主義の高まりという激動の時代でした。文学の世界でも、古典主義の形式や理性中心の考え方に対し、感情や個性を重視するロマン主義という考え方が台頭していました。
ユーゴーは、まさにこのロマン主義運動の旗手の一人でした。
ユーゴーの戯曲『エルナーニ』は話題作でした。公演の初日、開幕前からロマン派と古典派のこぜりあいが始まり、幕が上がるとこぜりあいは一気にヒートアップし、「エルナーニ合戦」と呼ばれる暴動が起きたと言われいます。
演劇の内容だけで観客同士が激しく喧嘩するなんて、現代の我々の感覚では驚きですよね。
しかし、当時の聴衆はそれだけ文学や芸術に真剣に向き合っていたのかもしれません。
そして、この戯曲『エルナーニ』の初演は大成功を収め、ロマン派を世界文学の主流に据える呼び水になったとも言われています。
ここまで来るとストーリーが気になりませんか?
ストーリーを端的に、今風にまとめると以下のようになります。
(1) 若くてヤンチャな「エルナーニ」は、「力を持った王様」と「お金持ちのオジ」との間で3対1の恋愛バトルを繰り広げ見事勝利します。
(2) しかし「エルナーニ」は、恋愛バトル中に「お金持ちのオジ」とした約束を守るため、結婚パーティーの後、彼女の制止を振り切って自殺してしまいます。
「何これ !?」、「2番目の話要らなくない?」と思いましたか?
一昔前のラブロマンス系の映画や恋愛ドラマ、恋愛リアリティショーであれば、(1)の内容を膨らませて終わりかもしれませんが、この作品には(2)があるんです。
「そんなことしたら恋愛バトルで勝った意味ないし、、」、「そんな約束なぜ守るの?駆け落ちすればいいのに、、」などと思いましたか?
オペラのストーリーなんてどうせ支離滅裂だから音楽さえ良ければいいんだよ、と言われる方もいます。ですが、ストーリーが支離滅裂だと思ったら、わざわざ大真面目に「エルナーニ合戦」なんて繰り広げなかったでしょう。つまり、当時の人たちはストーリー自体には腹落ちしていたようなんです。
われわれ現代人とは何か価値観が違うのでしょうか?
不思議ですよね?
登場人物とあらすじをもう少し見ていきましょう。
3対1の恋愛バトルですので、主要な登場人物は、男子3人、女子1人です。この4人を押さえておけば話の流れは理解できます。
男子3人は、若くてヤンチャな「エルナーニ」、「力を持った王様」がスペイン国王の「ドン・カルロ」、「お金持ちのオジ」が「シルヴァ」になります。
エルナーニは山賊のドン(首領)、ドン・カルロは国王、シルヴァは貴族です。
そんな男子からモテモテな女子は「エルヴィーラ」といいます。
以下あらすじとなります。(カッコ[1]は第1幕を意味します)
・舞台は16世紀のスペインです。
・山賊の首領エルナーニは、愛する女性エルヴィーラが、彼女の叔父であり老侯爵のシルヴァと婚約させられることを知り、悲嘆に暮れています。部下の山賊たちは彼を励まし、皆でエルヴィーラをシルヴァの居城から誘拐しようと決意します。[1a]
・同夜、エルヴィーラもエルナーニが自分を救出してくれることを願っています。[1b]
・そこに、ドン・カルロ(スペイン王カルロ1世)がお忍びで登場します。彼はエルヴィーラに自分の想いを告げ、彼女を強引に連れ出そうとします。そこへエルナーニが登場します。2人の争いがエルヴィーラの仲裁で収まると、老侯爵シルヴァが現れます。[1c]
・シルヴァは、エルヴィーラの居室に2人までも若い男性がいることに驚き、城内の部下を集め2人を手討ちにしようとしますが、ドン・カルロの従者ドン・リッカルドがカルロ王の素性を明かし、一同は驚愕します。[1d]
・カルロは恥じ入るシルヴァを赦し(ゆるし)、またエルナーニを自分の従者の一人であるかの如くシルヴァに言って、エルナーニの命も救います。[1e]・エルナーニは、シルヴァとエルヴィーラの婚礼の日に、修道士に変装して訪ねます。シルヴァはこの見知らぬ客を寛大に迎えます。シルヴァが席を外している間にエルヴィーラは、今でもエルナーニだけを愛していること、このまま婚礼となれば自分は喉を突いて死ぬ覚悟であることを打ち明け、2人は抱擁します。[2a]
・そこへ戻ってきたシルヴァは自分が侮辱されたことを知り激怒、今度こそエルナーニを手討ちにしようとしますが、そこへドン・カルロが軍勢を率いて城へ攻め入ってきます。ドン・カルロは山賊エルナーニを追っていました。シルヴァは、城に乱入した軍勢に客人を引き渡すことは貴族としての誇りが許さない、としてエルナーニを秘密の部屋に匿います。[2b]
・怒ったカルロはエルヴィーラを人質として連れ帰ります。残されたシルヴァとエルナーニは、共通の敵である国王を倒すため共闘することを誓います。エルナーニは、身柄を匿ってくれたことをシルヴァに感謝し、自分の角笛を命を預けた証拠として渡します。そして「この角笛が鳴れば、エルナーニはたちどころに死ぬ」と約束します。[2c]・ドン・カルロは皇帝選挙の結果を待ちわびていますが、謀反の企てがあると知り自らカール大帝(シャルルマーニュ)の墓室に身を潜め、謀反人たちを一網打尽にしようとしています。予想とおり陰謀者たちが入って来ますが、その中にはエルナーニとシルヴァもいます。[3a]
・大聖堂の外からドン・カルロが皇帝が選出されたことを知らせる砲声が轟きます。同時にカール大帝の墓室の大扉が開き、ドン・カルロは「反乱者よ、自分こそカール5世である」と名乗ります。ドン・カルロの皇帝選出を祝賀する一団が聖堂内に入場、反乱者たちを逮捕し、公爵から伯爵までは斬首を、それ以下の者は監獄送りを命じます。エルナーニは、自分もアラゴンの元貴族家出身のドン・ジョヴァンニであると身分を明かし、仲間とともに死を望みます。しかし、エルヴィーラがドン・カルロに駆け寄りエルナーニの赦免を嘆願します。ドン・カルロは、この墓所に眠るカール大帝の遺徳、すなわち慈悲の心を自分も受け継ぐのだと考え直し、陰謀者一同を即座に放免、エルナーニには貴族としての家名復活とエルヴィーラとの結婚を認めます。一同は新皇帝の慈悲を賞賛しますが、ドン・カルロへの反乱も潰え、結婚するはずのエルヴィーラも失ったシルヴァだけはひとり納得がいきません。[3b]・いまや貴族に復帰、「アラゴンのドン・ジョヴァンニ」と称せられるようになったエルナーニとエルヴィーラの結婚式が盛大に行われています。[4a]
・遠くから角笛の音が響き、エルナーニだけがその意味に気付き青ざめます。シルヴァが現れ、エルナーニと以前交わした誓約、すなわち「シルヴァが角笛を吹いたならば、エルナーニは自らの命を絶つ」という約束を履行するよう迫ります。[4b]
・絶望したエルナーニは、愛するエルヴィーラを残し、自死します。悲嘆に暮れるエルヴィーラに、自分との愛を覚えていて欲しい、と遺して果てます。[4c]
このお話の中で、さらっと出てくる「ドン・カルロ」ですが、世界史を勉強していると学校で習っているかもしれません。ドン・カルロは、実在したスペイン王であるカルロス1世(在位1516年〜56年)のことです。まだピンと来ないかもしれませんが、スペイン王カルロス1世は、神聖ローマ皇帝カール5世(在位1519年〜56年)でもあります。そうです。マルティン・ルターが宗教改革で戦った相手が彼です。
オペラ『エルナーニ』では、ドン・カルロは当初、エルヴィーラを一方的に好きになり奪ってしまおうとする粗野な王として描かれます。しかし、物語が進むにつれて、彼は次第に人間的な側面を見せるようになります。エルナーニの命を救ったり、最終的には二人の結婚を許すなど、寛大な一面も描かれています。第3幕で謀反人たちを許す場面で、偉大なるカール大帝を模範として徳を積みたいというセリフがあるのですが、ここで出てくるカール大帝というのは、「カールの戴冠」(西暦800年)で知られるあのフランク王国の王のことです。ドン・カルロにとって、皆さんが知っているカール大帝が「あこがれ」だった、、など、色々なつながりを知るとまた面白いかもしれません。
せっかくですのでドン・カルロ情報(カール5世情報)をもう少し提供しておきたいと思います。解像度が高くなるとより親近感が沸くかもしれません。
- カール5世は、「太陽の沈まぬ国」と称された広大なハプスブルク家の領土を受け継ぎました。スペイン、ネーデルランド、南イタリア、オーストリア、そして新大陸の一部を統治し、ヨーロッパの政治に大きな影響力を持っていました。
- 宗教改革を進めるマルティン・ルターを異端とみなし、ヴォルムス帝国議会に召喚して論争を行いました。カトリックの擁護者として、プロテスタント勢力との対立を深めました。
- カール5世は、画家ティツィアーノの才能を高く評価し、宮廷画家として厚遇しました。ティツィアーノは、その後ルネサンス最盛期のヴェネツィア派を代表する画家の一人となります。彼の初期の代表作「聖母被昇天 (1516-18年)」は、世界史や美術の資料集などで見たことがあるかもしれません。彼の支援がなければ、ティツィアーノのような巨匠の才能が開花することも、ルネサンス文化がヨーロッパ各地に広まることももっと遅れていたでしょう。
- そんなカール5世ですが、晩年はスペインのユステ修道院に隠遁しました。そこで、時計作りなどの趣味に没頭しながら静かに過ごしたと言われています。大きな権力と莫大な富を使って老後もキラキラした生活が送れたのに、彼はそれを求めなかったというのが興味深いですね。
本作のあらすじ、背景を知った上で、代表的なアリアや重唱の聴きどころについて触れていきます。
「エルナーニ」には、聴き応えのあるアリアや重唱が数多く存在します。加えて、力強い/華やかな合唱が随所に現れ、ヴェルディの出世作『ナブッコ』から彼の作品の根底に流れる「人間の声の力」が聴く人の心を揺さぶります。
以下イタリア語の曲名でネット検索すると、有名なオペラ歌手が歌うそれの音源や映像を視聴できますので、オペラ鑑賞の前にこれだけ聴いておくだけでも感情移入しやくすなるかもしれません。
[1a] 「Mercè, diletti amici(友よ、頼む、彼女に伝えてくれ)」:エルナーニがエルヴィーラへの切ない想いを歌い上げる、力強くも叙情的なアリアです。彼の苦悩と情熱が伝わってきます。
[1b] 「Ernani, involami(エルナーニ、私を奪い去って)」:エルヴィーラがエルナーニへの愛を歌い、シルヴァとの結婚から逃れたいと願う美しいアリアです。彼女の純粋な愛と悲痛な叫びが胸に響きます。
[1c] 「Lo vedremo, veglio audace(見せてくれ、大胆な老人よ)」:ドン・カルロがエルヴィーラへの執着と、エルナーニへの敵意をあらわにする威圧的なアリアです。彼の王としての威厳と野心が感じられます。
[1d] 「Infelice! e tu credevi(不幸な男!そしてお前は信じていたのか)」:第1幕の終わりに、エルナーニ、エルヴィーラ、ドン・カルロがそれぞれの感情を激しくぶつけ合う、劇的な三重唱です。三者の複雑な関係性と感情の高まりが表現されています。
[2c] 「Salvi ne vedi, e liberi(武装するもしないも)」:エルナーニがシルヴァと角笛の約束をした後、シルヴァ、エルナーニ、騎士達(合唱)皆でエルヴィーラを連れ去ったドン・カルロに復讐に行こうぜ!と盛り上がって第2幕が終わります。
[3a] 「Oh de’ verd’ anni miei(ああ、わが青春の年月よ)」:第3幕で、ドン・カルロが戴冠を前に、過去の放蕩を悔い改め、新たな決意を表明する荘厳なアリアです。彼の内面の変化が示唆されます。
[4c] 「Ferma, crudele(やめて、むごい人)」:第4幕の最後に、破滅へと向かう三者の絶望と悲しみが交錯する、痛ましい三重唱です。悲劇的な結末を象徴する場面です。
今回ドリームチームのメンバーに、ピアーヴェという台本作家がいました。『エルナーニ』から始まり、ピアーヴェはヴェルディのオペラ作品の台本作成を多数手掛けました。オペラ芸術に多大な貢献をしたことは疑いようのない、そんなピアーヴェですが、生い立ちは変わっています。
イタリアのムラーノ島のガラス職人の息子として生まれますが、父親が破産したため聖職者を目指すことにしました。しかし勉強が楽しくなかったのか、途中でそれを止め、デザイン(校正)の仕事をしながら結婚式の詩などを書いていたそうです。すると劇場付きの詩人として雇われ、全く経験のなかったオペラの台本作成に関わることになります。そしてヴェルディの厳しいダメ出しをどれだけ受けてもめげずに仕事を続けていくうちに、なくてはならないヴェルディの右腕となっていきます。一つ一つ見るとブレブレでダメダメな「落ちこぼれ」のようですが、優れた台本作家となるためにはどれも意味があった、価値があるように見えるのが不思議です。
最後になりますが、エルナーニはなぜ約束を守ったのでしょう?
ストーリーの中には、幾度も名誉だの慈悲(ゆるすこと)だのといったくだりが出てきます。
中世ヨーロッパにおける名誉は、現代的な意味合いよりもはるかに重く、個人のアイデンティティや社会的地位と不可分に結びついていました。その背景には、封建制度、武力社会、キリスト教の影響、ゲルマン民族の伝統などがあると言われています。名誉を維持し、慈悲の心を持つことで、人としての徳を積んでいくべきという考え方は、日本を含む東洋の思想にもあります。
名誉は、家柄、武勇、忠誠心、信仰心、そして公の場での評判によって築き上げられ、維持されるべきものでした。名誉を傷つけられることは、自己の存在を否定されるに等しい屈辱であり、時には生死に関わる問題でした。
そんなの古臭い考え方と思われるかもしれませんが、現代では視聴回数を増やすために他人にわざと迷惑をかけるSNSインフルエンサーもいます。バズることを考えれば「悪名は無名に勝る」と言う人もいます。
名誉を重んじていた当時の人たちがその話を聞いたらどう思うか、我々は野蛮な人たちと思われないか気になってしまいます。
皆さんそれぞれ気になるところがあれば、ぜひ掘り下げて頂ければと思います。
そして『エルナーニ』が面白そうだなと思ったら、音楽や映像を調べてみたり、劇場に足を運んでみてください。
※ 本記事は、初めてオペラに触れる人たちが、オペラのストーリーを「他人事」ではなく「自分事」として捉えられるよう、考えかたのヒントを提示するものになります。このため何が正解かを追求することよりも、様々な解釈ができることを楽しみ、他の解釈も尊重して頂きたいと考えています。多様な解釈の存在は多様な演出にも繋がります。その上で、ストーリーや解釈の上に乗って押し寄せてくる素晴らしい音楽を楽しんでください。それが皆さんにとって良い経験となるようでしたら、是非周りの皆さんとも共有して頂けるとありがたいです。
【参考文献】
『オペラ大図鑑』アラン・ライディング、レスリー・ダントン・ダイナー 河出書房新社
オペラ対訳ライブラリー『エルナーニ』アウラ・マーニャ イタリアオペラ出版
『ヴェルディ』小畑恒夫 音楽之友社
世界大百科事典 平凡社
「エルナニ」ユゴー作 稲垣直樹訳 岩波文庫
「エルナニ」ユゴー作 杉山正樹訳 中公文庫
「ヴェルディのオペラ――全作品の魅力を探る」永竹由幸 音楽之友社
『日本のオペラ史』日本オペラ振興会 信山社
ウィキペディア「エルナーニ」https://ja.wikipedia.org/wiki/エルナーニ
1982年ミラノ、スカラ座、リッカルド・ムーティ指揮『エルナーニ』公演 DVDブックレット ワーナーミュージック
1983年12月ニューヨーク、メトロポリタン歌劇場、ジェイムス・レヴァイン指揮『エルナーニ』公演 DVDブックレット DECCA ユニバーサル ミュージック
2022年11月フィレンツェ、フィレンツェ五月音楽祭歌劇場、ジェームス・コンロン指揮『エルナーニ』公演 DVDブックレット ナクソス
『ティツィアーノ イタリア・ルネサンスの巨匠たち24. ヴェネツィアの画家』フィリッポ・ペドロッコ 池田享訳 東京書籍
『ティツィアーノ《パウルス3世とその孫たち》: 閥族主義と国家肖像画』ロベルト・ザッペリ 吉川登訳 三元社