今回は、イタリアの大作曲家ヴェルディの愛の詩の傑作として知られる「仮面舞踏会(かめんぶとうかい)」を取り上げます。
仮面舞踏会は、仮面をつけ身分や素性を隠して行われた舞踏会で、17世紀から18世紀にかけヨーロッパ中の宮廷で人気を博しました。あのマリー・アントワネットの母親としても知られる女帝マリア・テレジアは、仮面舞踏会は風紀を乱すものとして禁止令を出したという逸話まであります。
1792年、そんな仮面舞踏会で、スウェーデン国王グスタフ3世が下級貴族にピストルで暗殺されるという悲劇が起きます。ヴェルディのオペラ「仮面舞踏会」は、このグスタフ3世暗殺事件が題材となっています。
しかしながら、グスタフ3世暗殺事件は、ヴェルディのオペラ「仮面舞踏会」で描かれる恋愛三角関係が暗殺理由ではありませんでした(別の理由によるものでした)。せっかくですので、まず史実のグスタフ3世暗殺事件について触れてみたいと思います。
グスタフ3世は18世紀に在位したスウェーデン王国の国王です。在位中には、ロシア帝国やデンマークと戦って勝利するとともに、ハンス・フォン・フェルセンを臣下とし、フランスとの友好関係を深めました。ハンス・フォン・フェルセンは、マリー・アントワネットとフランス国王ルイ16世から深く信頼され、特にマリー・アントワネットとは深い交流があったことで知られています。日本では、「ベルサイユのばら(通称「ベルばら」)」と呼ばれる有名な漫画(ミュージカルにもなっています)がありますが、ここで主要な登場人物として描かれている「フェルゼン」が、このハンス・フォン・フェルセンなんです。
話が逸れましたが、グスタフ3世は演劇を愛し、華美な服装を好み、また社交的で、スウェーデンにフランス文化を積極的に輸入しました。彼は、スウェーデンのロココ文化を象徴する王として君臨し、この時代は「ロココの時代」とも言われました。
一方、内政としては、拷問の廃止、死刑の激減、信仰の自由、言論の自由を認め、社会福祉事業なども積極的に行いました。これらは現代の視点で考えても民主主義国家として良いと言われる施策です。
また、終身制だった官僚に定年制を導入し、禁酒法の導入やコーヒーの取り締まりも行いました。
自らトップダウンで上記のような政策を積極的に進めていく、リーダーシップがあり、オシャレで文化的素養のある国王。そんなグスタフ3世は、絶対王政下の国王として当時の国民から高い人気を得ていました。
では、彼はスウェーデン王国の全ての人々から良い国王として好かれていたと思いますか?
答えはNoで、そんな国王をよく思わない人たちもいました。
望ましい施策であっても、貴族にとっては自身の既得権益が奪われることがありました。また、国王が議会を開かずトップダウンで物事を決めるというのは、議員であった貴族の特権を奪うことでもあります。加えてグスタフ3世は、国の大きな柱にした軍隊にかかる費用を貴族らに強制増税してまかないました。
こうして、国民からは人気のあった国王ですが、貴族たちからの反発は強く、最終的に暗殺が企てられるようになります。
1792年3月16日、その日はオペラ座での仮面舞踏会の日でした。
グスタフ3世は最後の晩餐を終えた後、暗殺を警告した秘匿の手紙を受け取っていたそうです。
また、彼は暗殺の数年前にスウェーデンで有名な占い師ウルリカ・アルヴィドンから暗殺予告を受けていたといわれています。
しかし、そうした予告虚しく、グスタフ3世は下級貴族のアンカーストレム伯爵の銃弾に倒れます。
ウジェヌ・スクリーブ はこの暗殺事件を題材に「ギュスターヴ3世(グスタフ3世)」を書き、フランソワ・オーベールがこのオペラの作曲を行い、1833年にパリで初演されました。
ヴェルディはその23年後の1856年、シェークスピアの「リア王」のオペラ化を進めていましたが、完成には至らず暗礁に乗り上げていました。ヴェルディは、「リア王」のオペラ化を諦め、脚本家であり弁護士でもあったアントニオ・ソンマと「ギュスターヴ3世」のオペラ化、「仮面舞踏会」の制作を始めます。脚本家兼弁護士なんて、素晴らしい二刀流ですね。
そんなソンマは「仮面舞踏会」にすっかり乗り気になって、ヴェルディの再三にわたるダメ出しにもめげず、台本は急ピッチで仕上げられ、同年の11月末には脱稿します。ヴェルディは台本の写しをナポリの検閲官に提出するためサン・カルロ座に送ると同時に作曲を始め、2ヵ月余りで完成させました。
「仮面舞踏会」の上演はトントン拍子に進むはずでしたが、ヨーロッパの国王の暗殺事件をテーマにしたオペラ作品は、当時ナポリを支配していた(フランス)ブルボン王室政府下の検閲当局としては受け入れ難いものでした。当時のイタリアは独立の機運が高まっており、王政転覆を扇動する可能性があるという理由からでした。
結局、ナポリでの上演は諦め、検閲のゆるい法王の直轄地ローマに持ち込み、ローマの検閲官と折衝の結果、場所を欧州以外に変更するのみで許可を得ます。
そこで、ヴェルディは、舞台を新世界アメリカの「ボストン」に移し、「グスタヴ3世」を「リッカルド」、「アンカルストレーム伯爵」を「レナート」、政敵であった「ホーン伯爵」と「リッビング伯爵」を「トム」と「サムエル」、占い師「ウルリカ・アルヴィドン」を黒人女「ウルリカ」、「クリスティアーノ」を「シルヴァーノ」に変更し、60箇所ほどの字句の修正を行い、作品タイトルを「仮面舞踏会」に改題し、1859年にようやくローマでの初演に漕ぎ着けました。
長くなりましたが、以上がオペラ「仮面舞踏会」が制作、上演されるまでの背景になります。
ここからようやく本作品の内容に入りますが、あらすじを非常に短くまとめると以下の通りです。
「総督(上司)」が忠実な「部下」の「妻」と不倫関係(かなり純愛系)となり、その事実を知った「部下」が「政敵」とともに仮面舞踏会で「総督」の暗殺を企てます。しかし「総督」は、「部下」とその「妻」に申し訳ないと思っていて、二人の将来を思い、夫妻を本国へ赴任させる辞令まで手配していましたが、その事実を知らない「部下」に刺されます。その事実を伝え「部下」を許して絶命する「総督」を前に、「部下」は自分のやってしまったことを激しく後悔して終幕となります。
ここで、「総督(上司)」が「リッカルド」、「部下」が「レナート」、「妻」が「アメーリア」です。
本作は、妻の不倫相手である自分の上司に復讐するための暗殺が行われますが、暗殺があるからといって陰惨な印象はなく、むしろ人々の葛藤が気高く描かれていて美しいのが特徴です。
以下あらすじとなります。(後ろの括弧[1]は第1幕を意味します)
・舞台は17世紀、イギリスの植民地であったアメリカのボストンです。
・ボストン総督リッカルドは、忠実な部下レナートの妻アメーリアに想いを寄せています。[1a]
・レナートが総督の暗殺計画があると警告すると、リッカルドはウルリカに占ってもらうことにします。[1b]
・一方、アメーリアは、占い師ウルリカに、気になる人(リッカルド)を恋する気持ちを抑えたいと頼み、真夜中に処刑場に生えている薬草を摘めばよいと教えられます。リッカルドは偶然これを立ち聞きします。[1c]
・占い師ウルリカは、次いで訪れたリッカルドに、次に握手した人物に殺されるだろうと予言します。
次にリッカルドの手を握ったのは、部下レナートでした。[1d]
・総督リッカルドは処刑場へ行ったアメーリアを追い、二人はついに愛を告白します。[2a]
・何も知らない部下レナートが来て、リッカルドに襲撃者が待ち伏せしていると告げます。[2b]
・レナートはリッカルドを逃がし、顔を隠した妻アメーリアに付き添っていきますが、政敵のトムとサムエルが現れ、混乱する中でアメーリアの顔があらわになります。[2c]
・レナートは妻とリッカルドに裏切られたと憤り、復讐を誓います。[2d]・処刑場から妻アメーリアを自邸に連れ帰った部下レナートは、死をもって罪を償うよう妻に迫ります。覚悟を決めたアメーリアは、最後にせめて息子に会わせてと訴えます。[3a]
・レナートは、政敵サムエルとトムのリッカルド殺害計画に加わることにします。[3b]
・総督リッカルドは、レナートとアメーリアを本国に帰すことを決めますが、最後にもう一度アメーリアに会いたいと思い、警告を無視して仮面舞踏会に出ます。アメーリアは舞踏会でリッカルドに気づいて逃げるよう懇願しますが、レナートが現れてリッカルドを刺します。[3c]
・リッカルドはレナートに、自分のアメーリアへの愛はプラトニックなものだと告げ、レナートを許して絶命します。[3d]
本作のあらすじ、背景を知った上で、代表的なアリアや重唱を聞いてみると、曲の印象も変わるかもしれません。
これまであまり触れませんでしたが、リッカルドに仕える小姓(こしょう)オスカルや占い師ウルリカ、政敵たちにも聴き応えのあるアリア、重唱があります。
以下イタリア語の曲名でネット検索すると、有名なオペラ歌手が歌うそれの音源や映像を視聴できますので、オペラ鑑賞の前にこれだけ聴いておくだけでも感情移入しやくすなるかもしれません。
[1b] 「Volta la terrea(薄黒い顔で輝く星を仰ぎ)」:占い師ウルリカは「人心を惑わす」として追放する裁きを訴えられたリッカルドに対して、小姓オスカルがウルリカを弁護するために軽妙なバッラータを歌い出します。
[1d] 「O figlio d’Inghilterra(大英帝国の子よ)」:リッカルドを総督と気づいた水兵を先頭に、民衆が押しかけてリッカルドを讃えます。占い師ウルリカは、リッカルドの部下に謀反人がいると呟き、政敵サムエルとトムは立ちすくみます。この曲の旋律は、第一幕の初めにレナートが歌うアリアの冒頭部分と共通しており、総督賛美の気持ちを表しています。
[2a] 「Ma dall’arido stelo divulsa(あの草を摘みとって)」:占い師ウルリカの言葉に従い、アメーリアは夜中に処刑場へ薬草を摘みに行きます。アメーリアは恐怖に震えながら「薬草を摘む勇気を与えて」と神に祈ります。夜中の12時の鐘をきっかけに音楽はさらに激しさを増していきます。
[2a] 「Teco io sto(私はおまえのそばにいるぞ)」:処刑場にリッカルドが現れ、驚くアメーリアに愛の想いを告白します。アメーリアは、ためらい悩んだ挙句、堪えきれずに秘めた想いを打ち明け、二人は情熱的な二重唱を歌います。
[3a] 「Morrò, ma prima in grazia(私の最後の願いを) 」:レナートが妻アメーリアを引き立てて現れ、妻の弁明に耳を貸さずに冷たく死を命じます。アメーリアが、死ぬ前に子供に会わせてほしいと頼むのがこのアリアです。
[3c] 「Ma se m’è forza perderti(永久に君を失えば) 」:リッカルドが、部下レナートに秘密の恋がバレてしまったとは知らずに、思い出の愛は心に秘めてレナート夫妻を祖国イギリスに帰そうと決心して辞令に署名し、名誉と義務から恋を諦めた痛切な想いを歌います。
今回は、スウェーデン国王、貴族、ヴェルディ、台本作家、ナポリの検閲当局、作品内のリッカルド、レナート、アメーリアや政敵等、様々な登場人物がいました。現代の道徳・価値規範では、人を殺したり不倫することは間違いなくいけないことですが、当時のそれは全く同じではなく、現代の道徳・価値規範を杓子定規に当てはめるのは適切でないという考え方もあります。
その前提で色々な登場人物を再び眺めると、「いい人」なのか「悪い人」なのかは絶対的ではなく、どの視点から見るかで「いい人」になったり、「悪い人」になったり、見え方は異なるのかもしれません。
その人のことを知れば知るほど考えさせられてしまいます。
もし「仮面舞踏会」が面白そうだなと思ったら、そんなことにも思いを巡らせながら、音楽や映像を調べてみたり、劇場に足を運んでみてください。
※ 本記事は、初めてオペラに触れる人たちが、オペラのストーリーを「他人事」ではなく「自分事」として捉えられるよう、考えかたのヒントを提示するものになります。このため何が正解かを追求することよりも、様々な解釈ができることを楽しみ、他の解釈も尊重して頂きたいと考えています。多様な解釈の存在は多様な演出にも繋がります。その上で、ストーリーや解釈の上に乗って押し寄せてくる素晴らしい音楽を楽しんでください。それが皆さんにとって良い経験となるようでしたら、是非周りの皆さんとも共有して頂けるとありがたいです。
【参考文献】
『オペラ大図鑑』アラン・ライディング、レスリー・ダントン・ダイナー 河出書房新社
スタンダード・オペラ鑑賞ブック『イタリア・オペラ(下)』 音楽之友社
『イタリアオペラ対訳双書3「仮面舞踏会」』イタリアオペラ出版
『200CD アリアで聴くイタリア・オペラ―ベルカントの魅力』 立風書房
『北欧悲史』 武田龍夫 明石書店
『物語スウェーデン史』武田龍夫 新評論
『スウェーデン国王グスタフ3世の統治と芸術活動』東京音楽大学 紀要論文
『オペラ鑑賞辞典』中河原理 東京堂出版